2009年4月27日月曜日

戦艦三笠

日本人なら一度は訪れたい日本の場所があると思う。
伊勢神宮、富士山、皇居、東京タワー、金閣寺、東京ディズニーランド、上高地、日光東照宮、浅草、靖国神社などかもしれない。

今の日本が日本でいられるのは明治維新後、日清、日露戦争で勝利したことが大きいと思う。
当時は列強が植民地支配に熱心であり、日本も下手をすればロシアの植民地になってしまう可能性があった。

それを防いだのは当時の日本人である。そして、戦艦三笠を操った当時に海軍でもある。
私もこの年になって、やっと戦艦三笠への訪問を許されたように思う。





E-30&14-35

戦艦三笠の艦首。昔だったら海の上で撮影した角度かもしれない。日本海をこの戦艦は走り、日本を守った。
その雄姿が今ここにある。
多くの乗組員が訓練を重ねた結果、奇跡を生んだ。


E-30&14-35

左舷下方から30センチ連装主砲塔と艦橋を写す。
この砲から発砲された砲弾は何発なのであろうか。三笠以降、ドレッドノートが完成してから大鑑巨砲主義が歩き始めることになる。
日本海海戦で日本側の正確な砲撃による勝利が、それまでの戦闘方式を変えてしまったようだ。
それまでは船首下部にあった衝角を相手の船体にぶつけて、運動能力を奪ったり、沈没させていた。



E-30&14-35

艦橋付近。この艦橋に東郷平八郎司令長官、加藤友三郎参謀長、秋山真之参謀、伊地知艦長が立っていた。
戦闘時は、手すりにハンモックを巻きつけて弾片よけにしてあった。
しかし、直撃弾をくらったらひとたまりもない。

度胸があった人たちである。

今は手すりだけである。高所恐怖症には怖いところかもしれない。



E-30&14-35

左舷を眺める。15センチ副砲がにょっきり出ている。古典的なレイアウトである。
当時の乗組員は大変であったろうと思う。




E-30&14-35

左舷船首部を眺める。錨が大きくてびっくり。これを巻き上げるのも大変だったと思う。

2 件のコメント:

熱帯写真家 さんのコメント...

これはどこにあるのでしょう?

実家の父母が戦争経験者で、戦火の中を逃げて生き延びた人たちなので、ちょっとこの手の話題は微妙です。

以前、九段会館で結婚式の撮影をしていたときがありました。戦友会の集まりがあったらしく、当時さながら、印パール作戦から帰ってきたかのような、軍服の老人に会いました。

ミャンマーに行ったときは、マーケットで老人に「日本人でありますか?」と敬礼され、軍歌を歌われ「知らない」というと、「何!知らないのか?」と。

今思うと、もしかしたら日本人だったのかも知れませんね。

LEICA DAISUKI さんのコメント...

熱帯さん
横須賀ですよ。
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/
御参照ください。

戦争は肯定されるものではありません。
ただ、自衛しないと植民地化される可能が高い、当時の世界情勢ですね。
ですから日露戦争は自衛戦争的要素が強いですね。

妻の父もインパールに行っていたようですが奇跡的に無事帰還しています。

当時の日本軍の補給に関する考え方は、大変甘かったと思います。
現場の兵士は大変でしたね。

ビルマでも苦労した人が多かったと思います。